しあわせの隠れ場所:ジミー・バトラーの場合(1)

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  • gosp
    2011-06-24 00:32:57

  • gosp
    2011-06-20 10:32:13



今日ESPNを読んでいると、チャド・フォードの書いた記事に出会った。サンドラ・ブロックがアカデミー賞を受賞した映画「The Blind Side(邦題:しあわせの隠れ場所)」のバスケットボール版とも言えるこのストーリー。サンダーとは直接関係はないんだけど、良い話なので、一部を訳してみることにする。

Jimmy Butler finds a new home, hope(オリジナルの記事)

おまえのしけた顔はもううんざり。出て行っておくれ ---

ジミー・バトラーが覚えている、母から聞かされた最後の言葉。街角に捨てられる前に。

彼は13歳だった。身よりもない。家と呼べる場所もない。ポケットに金もない。

同じ年頃の子供が学校やスポーツ、女の子のことであれこれ悩んでいるような時期に、彼はただ生き延びるだけを考えていた。たった一人で。

バトラーはクリーブランドのホテルで私と話した時、しばしば話すのをためらった。インタビューで話していいのかわからないようだった。何年もの間、彼はこの話をメディアに明かしはしなかった。何度も彼は言った。話していいのかどうかわからないと。

彼はきたるドラフトのワークアウトに集中している。ちょうど6月8日のワークアウトが終わってニュージャージーからきたところだった。2日後にはキャバリアーズとのワークアウトをこなした。マーケット(大学)の彼のコーチであるバズ・ウィリアムスはいつも彼にこう言っていた。「今日を精一杯生きればいい」と。

バトラーは言う。「まさにその通りに生きてきました。その日を精一杯ね。NBAは自分の目標です。でも、まだその願いはかなっていない。だから集中をとぎらせる事はできないんです」

ドラフトまでにバトラーに残された時間は13日。おそらく1巡目の終わりから2巡目の初めの間のどこかで名前を呼ばれることになるだろう。

彼のワークアウトは、ほんとに全ての側面においてすばらしかった。ポーツマス・インビテーョナルではMVPを獲得したし、シカゴのプレドラフトコンバインでは力強いプレイでスカウトをうならせた。彼をワークアウトに呼んだチームのほぼ全てのスカウトやGMから賞賛を受けた。

あるGMは言う。「彼のストーリーは、長くバスケットボールの世界にいる私にとっても忘れられないもののひとつだ。彼が生きていく中で、どれだけ多くの困難が彼の成功を妨げただろう。その全ての逆境に彼は打ち勝ってきた。彼自身は多くを話したがらないが、彼と話すと感じるんだ。彼のすばらしさをね」

バトラーはその解釈に納得するだろう。しかし同時に彼が恐れていることもある。

彼は私に言った。「あなたはこのストーリーについて記事を書くだろう。だからお願いがあるんだ。決して他の人が僕のことを憐れむようには書かないで欲しい。そういうのは嫌なんだ。憐れみを感じることなど何もない。自分の身に起きた事全てを大切に思っている。それらの事が自分という人間を作ってくれたんだ。自分が直面した困難に感謝しているよ。だから人の憐れみを乞うような話にはしないでほしい」

憐れみはバトラーに何もしてくれはしなかった。勇気こそが彼をここまでにしたのだ。

■ バトラーは家族を見つけた

13歳でテキサスのトムボールにある自宅を離れたバトラーは、生き伸びる事に全力を尽くした。生まれた時から父は身の回りにいなかったので、彼は友達のところに可能なかぎり居候した。普通は2、3週間。そうしたら次のところへ。。。 横になって眠れるところならどこでも構わなかった。

バスケットボールだけが彼の人生だった。彼は素晴らしい才能を発揮した。高校2年の終わりの夏に、彼はトムボールのスターとして多いに注目を集めた。ただ、それは有名校のコーチたちからではなく、ジョーダン・レスリーという1つ年下の男の子からだった。

レスリーもトムボール出身で、バトラーのことをずっと注目していた。サマーリーグの試合が終わった時、レスリーはバトラーに歩み寄り、スリーポイントシュートでの勝負を申し込んだ。バトラーはちょっと恥ずかしくなって少しためらったが、その挑戦を受けた。レスリーも運動は万能で、バスケットとアメリカンフットボールで頭角を現し始めていた頃だった。

その勝負の後、2人はすぐ友達になった。レスリーはバトラーを家に招いて、テレビゲームをしたり泊めたりするようになった。バトラーの人生が変わった瞬間だった。

レスリーの母のミシェル・ランバートは最初戸惑った。彼女は死んだ先夫との間に4人の子供があった。そして再婚した夫には3人の子供。お金に余裕はなかった。街の噂ではバトラーはやっかいものとのことだった。最終的に彼女の夫はバトラーに泊まっていくのは構わないと言った。ただ1回につき2日とか3日にしてくれと。

ところが夜になると子供が言いだした。「(昨日バトラーはお兄ちゃんの部屋に泊まったから)今日は私のところに泊まっていく番よ。」

2ヶ月程して夫婦は諦めて言った。「好きなだけいたら良い」と。

バトラーは家族を求めていた。そしてランバート家は彼を迎え入れた。

しかし、それには条件があった。生まれて初めて彼には門限が課せられた。毎日クラスに出て、成績を上げなければならなかった。家の雑事も任された。そして一番大切なこととして、他の子供達の手本になることをミシェルに言い渡された。

ランバートは言う。「私の子供達はあなたのことを尊敬してると言ったの。だから厄介事にはクビを突っ込まないこと。学校で一生懸命頑張ること。いい模範になることを約束させたの。どうなったかって? バトラーは約束を果たしたわ。頼んだ事は全て、理由さえ聞かずにね。」

バトラーは言う。「彼らは僕を家族として受け入れてくれたんだ。それもバスケットボールがうまかったからじゃない。彼女は愛情に溢れた人なんだ。当たり前のように受け入れてくれた。本当に信じられなかったよ。」

生まれて初めて家族に支えられ、バトラーはトムボール高校バスケットボールチームのスターになった。3年の時にはチームのキャプテンとして一試合平均19.9点、8.7リバウンドをマークし、地区のベストメンバーにも選ばれた。

だが、それでも彼が期待したように大学からは注目されなかった。スカウトは彼に眼を向けなかった。彼はオールアメリカンリーグでプレイしなかったことも足を引っ張る結果となった。ミシシッピー州立大からかろうじて誘いがあったものの、奨学金は得られなかった。こうしてまた抜き差しならない状況に追い込まれたバトラーは、近くのタイラー・ジュニアカレッジに入学するほかなかった。

こうして再び、彼は追い詰められた。

しかし、バトラーは生き延びただけでなく、そこで大きく開花した。タイラーでの初めての対抗戦、彼は34得点を叩き込んだ。

彼は言う。「そのあとも何試合か30点、40点を記録したんだ。そのことで大学レベルでも十分プレイできると自信がついたんだ。」

大学1年生として、バトラーはチームのリーディングスコアラーになり、オールアメリカンとして表彰された。メジャーな大学のコーチ達も彼のことに注目するようになった。2008年の4月には、バトラーにはマーケット、ケンタッキー、クレムゾン、ミシシッピー州立大からのオファーが届いた。

またここで、ランバート家はバトラーの生き方を指し示す力となった。

ミシェルは言う。「彼にはたくさんの大学からオファーがきたの。でも、アカデミックな側面からマーケット大学に非常に感銘を受けたわ。すごく優秀な大学でしょ。彼にはマーケットに進むように勧めたの。だって、長い目で見てバスケットで生活できるとは限らないもの。うまく行かなかった時の為に、質の高い教育を受けて学位を修得しておく必要があったの。」

(続く)

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コメント
何とも、ドラマチックな話しです。昨年あたりから、バトラーには注目していました。可愛いし、オールランドプレイヤーとして、スコッティ ピッペンの様になる気がします。
  • M.Nakazawa
  • 2014/12/21 7:56 PM
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